普通の推理小説は事件が進行する事で、話が進みますが、
ミス・マープルのシリーズは、群像劇的に話が進みます。
群像劇とは、特定の主役を設けずに構成する作品の事です。
では何故、ミス・マープルという主役がいるのに、
群像劇的な作品と、自分は感じてしまうのか?
それは、ミス・マープルが作品の中では、
ただ「噂話が好きなお婆さん」という立場になってしまうからです。
ミス・マープルは洞察力は鋭いですが、ただのお婆さんです。
なので、マープルが事件と関わる時は、「噂話が好きなお婆さん」として、
関係者に会い、事件以外の会話や噂話などをします。
しかし、その会話や噂話などから、関係者の人物像を分析をして、
事件全体を考察するのが、ミス・マープルの捜査の仕方です。
今回は、そのミス・マープルの「予告殺人」を再読。
改めてこの作品は、ミス・マープルらしい、群像劇的作品と感じました。
この作品の中で特に印象が強い、ミス・マープルのセリフを上げます。
【人生に、怨みを持つようになると、
その怨みの心が少しばかりの道徳力を徐々に壊してしまうのです】
【弱い人間っていうものは、本当に自身の安全が脅されると、
恐怖のあまり、狂暴になり、自分を抑えられなくなってしまうものです】
ミス・マープルが犯人について語っているのですが、
アガサ・クリスティー自身の「人生観」が表現されてると思います。
クリスティー自身が名言してますが、
ミス・マープルが登場した1930年代の時には、
自分の祖母をイメージして、ミス・マープルの作品を執筆してます。
しかし、後年になるとクリスティーはミス・マープルの事を、
自身の分身みたいな存在と名言しています。
この「予告殺人」は1950年に発表されてます。
この時期から、アガサ・クリスティーの実年齢と、
小説の登場人物である、ミス・マープルの設定年齢が近づいてきます。
だからでしょうか?
この作品からミス・マープルという存在は、
クリスティーの「人生観の代弁者」として、生まれ変わったのではないか?
自分は、そう妄想してしまいます。