はぐれの徒然なるままに(仮)

肩こりと老眼が進行中の中年男性による回顧録

「アクロイド殺し」は何故、アンフェアと批評されたのか?➀

*今回の記事は、自分が以前に書いた物を再編集した記事になります。

ミステリーの女王と呼ばれた推理小説家:アガサ・クリスティー

その彼女が書いた小説で「アクロイド殺害事件」という小説があります。

この小説は1926年に発表されたのですが、
発表された当時は【フェアじゃない!アンフェアだ!】と批評されました。
しかも、その批評は今の価値観で考えると『そんな事で批評される?』
と、いう印象ですが今から約100年前の推理小説を取り巻く環境は現在とは違う為、その様な批評をされたのだと思います。
では何故、『アクロイド殺害事件』がその様な批評をされたかというと、
それは【登場人物の視点が変わる事で話自体が変わる】という手法を小説で使用したからです。
なので、先ずは【登場人物の視点が変わる事で話自体が変わる】という手法について邦画「アフタースクール」を題材にして説明したいと思います。

言い訳:【登場人物の視点が変わる事で話自体が変わる】手法についてアクロイド殺害事件」を題材にして書いたのですが上手く纏められませんでした。

2008年に公開された邦画「アフタースクール」。

先ずは、この映画のあらすじを簡単に説明します。
母校の中学校で働く教師・神野のもとに、かっての同級生だと名乗る探偵が尋ねてきて神野の幼馴染で一流企業に勤める木村を探していると話し出します。 そして、神野は探偵の強引なペースに巻き込まれて、木村を探す事に巻き込まれるうちに、神野の知らなかった木村の姿が明らかになっていくという内容です。
その為、この映画は【木村を探す探偵の視点】で話は展開していきますが、話の終盤になると【事件に巻き込まれた神野の視点】で話が展開します。
そして、今までの話の裏側が話の本筋になります。
つまり、話の途中で主役が変更した事で、今までの話とは違う話が始まる構成が【登場人物の視点が変わる事で話自体が変わる】という手法です。
でも、途中で主役が変更して今までの話とは違う話が始まるという構成は色々な小説や映画などでも使用された手法です。
では何故、この手法を使用した「アクロイド殺害事件」はアンフェアだ!と批評されたのか?
それは、推理小説とは【探偵の視点】で話が展開する小説だと1920年代の人々は思い込んでいた為です。
その為、『「アクロイド殺害事件」は推理小説としてはアンフェアだ!』と、批評されたのだと思います。
なので次回は、1920年代の推理小説について妄想してみます。


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